2013年09月09日(18:24)

危機に直面したとき、救ってくれたもの、ほしかったもの

2013_0909K.jpg

当社に、阪神・淡路大震災と東日本大震災を経験した男がいます。どちらも震源地から離れてはおりましたが、特に東日本大震災では出張中の3月11日、東京で被災。周りに知り合いが誰1人いない、地理もわからない中、宿泊予定だったホテルまで歩いて、真夜中に投宿した経験は、強烈に残っているようです。
写真は、ホテルへ向かう途中の道。公共交通機関が止まり、多くの人が歩いて家や会社に向かったという。
 
仕事のおつきあいがある方では、東日本大震災のとき仙台空港に向かっていたという方がおります。山形での最終訪問先が少し長引き、そのために空港での被災を免れたのですが、けっきょく数日後に日本海まわりでようやく北海道に戻ってきたそう。
 
当社の社員は、被災した東京でいちばん頼りになったのは、スマホの予備バッテリーだったといいます。バッテリーがなければ完全に情報を遮断され、東京の様子がわからないばかりか、会社への連絡もできなくなったのです。
彼は、何があっても予備バッテリーは持ち歩くようにしているといいます。
 
仙台空港手前で被災した方は、交通機関がマヒしたときのために、常に予備食料と水を持つことを習慣づけたそう。北海道内であいついだJR車両の異常停止に乗り合わせた方も、同じ気持ちかも知れません。
 
人それぞれ、非日常体験の中で自分なりの絶対信頼グッズを持っているのでしょう。
 
2013_0909K2.jpg
 
逆に、うちの母などは「セントラルヒーティングの家に住んだのに、暖房節約するくらいなら死んだほうがいい。誰が何と言おうと、自分は自分の好きな温度で暮らす」と申しています。戦中・戦後の時代、家が寒かったことと家庭が安定しなかったことがリンクして、強烈な体験として子どもの記憶にすり込まれ、暖かい=家庭が安定=幸せとつながるようです。強烈な体験によって好みが決まることもあるいい例です。

カテゴリ:ひと |

コメント

私は阪神を経験していますが、その時の教訓としては、「離れる事が出来る者は離れる」です。
当時は実家建て替え中で父の会社の西宮市の社宅に入っていました。家の中はぐちゃぐちゃになりましたが建物も家族も無事でよかったのですが、結局当日の夜に母と相談し、母と姉を残して当時勤めていた会社の寮に私は疎開しました。食い口を減らす為、それと女性だけの方が何かとやりやすいと。
食い口を減らすと、食料や水の調達も最低限で良いですし、行動が別な人間が居ると連絡も大変なので。
それと、2004年の北見豪雪で北見駅で2泊した時の経験では、携帯の補助バッテリーの大切さを痛感しました。私も補助バッテリーを持ち歩く人間です。
まるへんさんはなんですか?GPS(^^?

なべやん(2013-09-10T20:07)

そうそう、お母様の感覚、そうなんですね。
私の周りでも、そのような方が多いです。
人が来る時は、家の中は汗が出るくらい暖かくするのが何よりのもてなし。
一番節約や寒さを乗り切る手段を知っている年配の方ほど、そう言う節約は絶対にしないようです。

なべやん(2013-09-10T20:11)

自分は、行動食のSOYJOYと大福もちとあめです。いつでも持ち歩くわけではありませんが、出かけるときは、常に予備食を持って出ますね。
 
節約行動をいやがるこだわりは、だいたい心の中に原因がある気がします。トラウマ系の・・・。

白井康永(2013-09-10T22:00)

コメント

PROFILE

編集長 白井 康永

家づくりを変えたいという野望を持ち、北海道住宅新聞、札幌良い住宅jp を中心に、少子化の激流のなかでわれわれが日本を導きます.時にひょうひょうと(笑).
北海道・札幌市生まれ54歳。血液型O型.新卒1年、専門学校に通う娘たち、高校を卒業した息子あり. 休日にやってること:のろまジョギングとテレマークスキー.

月別アーカイブ